2015年 08月 15日
ヒロヒトと原爆/ 戦後70年 |
昭和天皇の大東亜戦争作戦関与と戦争判断
昭和天皇の大東亜戦争作戦関与と戦争責任を考える
中国への膨張政策と南進に対し、米国は種々警告を発していた。 ところが当時の政治・軍事指導者の多くは、南進(南部仏印進駐・1941年[昭和16年]7月28日)で米国が石油禁輸に踏み切ることはない。と読んでいた。 1941年8月1日、米国の対日石油禁輸制裁を受け、愕然・呆然とした空気が陸海軍部を覆った。 このことで、天皇は"此の様"になったので戦争も已むを得ぬと考えた。 米国と、ソフトランディングの交渉中に戦争に踏み切らざるを得ない場合の基地確保と称して「南進したことで石油を止められ、戦争への道を選択」したのであり、 「石油を止められたから戦争へ突入」したのではない。
昭和天皇は核兵器開発に戦局挽回の希望を持っていたのである
敗戦は天皇制護持を絶対条件としていた。1944年2月、天皇に近衛文麿が上奏文を読み上げ「敗戦は避けがたい。直ちに終結を」と述べた。しかし、天皇は「もう一度戦果を挙げて」と戦局挽回を述べる。天皇を平和主義者に偽装する者は「植物学者の天皇は、軍に原爆の開発禁止を命じた」と今も虚偽を述べている。
ニ号研究(原爆開発) ・ 大日本帝国の最後の切り札
第二次世界大戦末期に日本が原爆開発を行っていたことを示す新たな証拠が見つかる
旧日本軍が第二次世界大戦の終戦直前、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で原爆実験を実施した??
【ワシントン5日時事】旧日本軍が第二次世界大戦の終戦直前、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で原爆実験を実施したとの情報を米軍がつかみ、戦後日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)などが秘密裏に調査していたことが、米国立公文書館で時事通信が入手した米軍機密文書(約三百ページ)で分かった。一九四七年の米軍防ちょう機関の報告は「原爆に似た爆発があった」と伝えているが、真相は解明できなかったもようだ。
対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトから国務長官マーシャルあての書簡
(1947年9月22日付) 国務長官殿 在ワシントン
主題 琉球諸島の将来にかんする日本の天皇の見解
米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう(昭和)天皇が希望していると、言明した
ソ連の参戦が、昭和天皇にポツダム宣言受諾を決意させた
昭和天皇が、国体(天皇制)護持にこだわったため
戦争終結が遅くなり2発の原爆が投下された
【昭和天皇実録】「ご聖断」ソ連参戦で決意 報告の18分後
宮内庁は9日、昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。事実として確認された言動や、側近らの謁見日時が時系列で示され、これまで諸説あった終戦の「ご聖断」の経緯が明らかになった。昭和天皇が最終的にポツダム宣言受諾を決意したのはソ連軍が満州に侵攻したとの情報を得た直後で、ソ連参戦が「ご聖断」の直接原因だったとみられる
昭和天皇「ご聖断」つまり終戦の決意はいつだったのか
「ご聖断」つまり終戦の決意はいつだったのか。降伏の玉音放送は昭和20年(1945)8月15日だが、天皇の決断については、これまで広島への原爆投下(6日)、長崎への原爆投下(9日)、ソ連の参戦報告(9日)など諸説あった。(ご聖断の録音は14日夜)
6日の広島原爆投下について、天皇は2日後の8日に外相に鈴木貫太郎首相へ早期の戦争終結の希望を伝えたの対して、今回昭和天皇実録で分刻みで明らかにされた9日午前の行動から、
・9時37分 ソ連参戦の報告を受ける
・9時55分 木戸幸一内大臣を呼び速やかな戦局収拾をするために首相と懇談するように指示した
・11時2分 長崎に原爆投下
ということが分かった。
1945.2.14 近衛上奏文
天皇の「聖断」の背景理由として、「当時の支配者は敗戦に伴う共産革命の危機を恐れていた」ということが存在していたということが踏まえられねばならないことになる。
昭和天皇とポツダム宣言受諾・終戦への動き
日本側のポツダム宣言受諾までの動き
模擬原爆(パンプキン爆弾/1万ポンド爆弾)空襲
「目標に投下できない場合はどの都市でもいいので町の真ん中に落とせ」との指令で落とされた模擬原爆60発
米国 日本にさらに12の原爆を投下する予定だった
日本が1945年8月1日までに降伏しなければ、米軍は、投下決定の広島と長崎のほかに、京都、横浜、小倉、新潟、東京などへ、はるかに強力な爆発力を持つ原爆12発を追加で投下する計画を推進していたと伝えた。
新潟がゴーストタウンになった日。知事が命じた「原爆疎開」
終戦まであと2日に迫った1945年8月13日、新潟市はゴーストタウンのような状態になっていた。市街地はもぬけの殻で、人影は全くなかった。「次に原爆が落ちるのは新潟」と判断した県が知事布告を発令し、新潟市民の強制疎開を命じたからだ。
8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が投下された。「新型爆弾で全滅した。次は新潟だ」という恐怖が市民に広がっていた。当時の新潟市の人口は約17万人。新潟港は朝鮮半島から物資を輸送する拠点港だった。戦争末期には太平洋側の航路が保てなくなるため、日本列島への物資受け入れ窓口として重要性が高まっていた。しかし、8月1日に近隣の長岡市がB29の大空襲で市街地の80%が焼失したのは対照的に、新潟市は大規模な空襲をほとんど受けていなかった。
長崎原爆投下の前に米軍機から投下された予告ビラ
原子爆弾の投下を予告するビラ
日本國民に告ぐ!!
"即刻都市より退避せよ"
米軍は広島原爆投下前に予告ビラを撒いてすぐに逃げろと警告していました。それで郊外に出て助かりました。
原爆が投下された昭和20年8月6日の前夜の最終バスで、 母ヤヨイさんに背負われて広島市外にある父の実家に食糧調達に出かけたため、 助かったからだ。 「その数日前から、8月6日に新型爆弾を落とすから市民は逃げるように・・ という米軍のビラがまかれていたそうです。
安倍首相も知らなかった? ポツダム宣言の全文現代語訳
玉音放送の口語訳全文と音声【終戦の日】
終戦の詔勅(玉音放送)
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
「大東亜戦争」八紘一宇と海ゆかば
神風自爆攻撃
八紘一宇 - Wikipedia
「八紘一宇」とは何か? 三原じゅん子議員が発言した言葉はGHQが禁止していた
八紘之基柱 - Wikipedia
1940年の神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝うにあたり、国は紀元二千六百年奉祝 事業として「八紘一宇 の精神を体現した日本一の塔」を作る
宮崎市の「八紘一宇の塔」は、現在「平和の塔」と呼ばれている
準国歌 海ゆかば
歌詞
海うみ行ゆかば 水み漬づく屍かばね
山やま行ゆかば 草くさ生むす屍かばね
大おお君きみの 辺へにこそ死しなめ
かへりみはせじ
(長閑のどには死しなじ)
「海行かば」の歌詞( 現代語 )
海で戦って死ねば、死体は海水に浸かって浮かぶだろう。
山で戦って死ねば、打ち捨てられた死体は草に覆われるだろう。
天皇のおそばで死ぬのだから、決して後悔はしないぞ
「海行かば」の歌詞
「海行かば」の歌詞は千数百年前に、大伴家持が詠んだ長歌が
原典ですが、歌詞の意味はどう考えても鎮魂歌ではありません。
「陸 海軍の兵士は 例え戦場に屍しかばねを曝したとて、天皇の側かたわらで、
心を寄せて戦死するのである。決して 後悔はしないのだ」
という 兵士の忠誠心や覚悟、戦意の昂揚を狙った歌なのでしょう。
by komoro-democracy
| 2015-08-15 12:00